本校校歌と作詞者平野秀吉先生について
新潟県立三条高等学校長 小 島 正 芳 |
1.はじめに |
三条高校校歌のすばらしさは、巷間でもよく知られている。詩人西脇順三郎作詞の小千谷高校の校歌も有名であるが、三条高校の校歌のすばらしさは筆舌に尽くしがたいものがあると思う。私も三条高校に赴任して、生徒が歌う校歌を聞きその歌詞に感銘を受けた一人である。
昨年度から渡邊喜彦同窓会長じきじきのご指導をいただき、生徒は応援団の指揮のもと校歌五番まで大きい声で斉唱している。大変ありがたいことである。五月一日の創立記念日には、千人弱の全校生徒が校歌五番まで歌った後、創立記念の校長講話をした。内容は、校歌の作詞者平野秀吉先生は、三高生が歩むべき指針、理想像を歌詞の中に込めて作っていらっしやる。校歌の一番から五番の歌詞を反芻し、自分の行き方を検証するとともに、人生の支えとしていってほしいというものだった。
私の叔父は旧制三条中学校の卒業である。叔父の三中相撲部時代の凛々しい写真の姿は、私の脳裏にはっきりと刻まれている。その叔父が、この三条高校校歌を歌って人生の支えとしていたのかと思うと、感慨深いものがある。海軍じこみの往復びんたとともにその凛々しい生き方が懐かしく思い出される。
三条高校同窓会吉田支部総会では、昨年から総会の冒頭に校歌を斉唱するようになった。威儀を正し、旧制中学を卒業した大先輩はもとより、若く清新な同窓生も共に大きな声で母校の校歌を斉唱する様は壮観であった。先輩たちは口々に「校歌を支えに生きてきた」とおっしやる。
同窓生の三高校歌に寄せる思いは、このように熱烈なものがある。各支部の総会では、校歌を斉唱するだけでなく、校歌の歌詞を染め抜いた旗が正面に釣られている。「どの歌詞が支えになったか」とお聞きすると、実に多彩な答えが返ってきた。やはり多かったのは、二番の「いざやためさん我が力 琢磨は石を玉と化す」であった。また、五番の「我は花なき松杉の 冬凛々の気を凌ぎ 夏炎々の日に枯れず 国の柱とそびえばや」と答える方も多かった。それらのお話をお聞きしながら、三高校歌の歌詞は、人生の応援歌でもあるという感を強くしたのであった。 |
2.作詞者平野秀吉先生と良寛 |
旧制三条中学校の校歌が制定されたのは、三条中学校が設立された翌年明治三十八年十月のことである。作詞者の平野秀吉先生は、このころ新潟県高田師範学校の国語の教諭であった。
平野先生は、明治六年六月五日西蒲原郡巻町大字巻二九〇番地でお生まれになっている。先生は幼少より郷土の良寛に興味を抱かれるようになったという。その理由は、母上が良寛が好きで、七・ハ歳ころより逸話を聞かされていたからである。「母は良寛を余程好きであったらしく、いつも楽しそうにして、良寛さんの名をくりかえして、世間離れのした逸話を語って聞かすので、私どもはまったくお伽噺として、之を聞き
親しんだものである。」(「良寛と万葉集」)このような中から、平野先生の人間愛・スケールの大きい教育者としての姿・文学への指向というものが醸成されたのだと思う。
先生は、明治十九年巻小学校を卒業されると、授業生という教員免許状をもって国上小学校の先生となった。十四歳であった。ここで、先生は将来歩むことになる文学研究との最初の出会いをなさっている。とい
うのは、下宿していた大庄屋涌井唯一家で、良寛が「万葉集」の秀歌をメモしていた「秋の野」を見つけ、それを筆写していたことがあったのである。そのとき先生は、この歌集の歌を良寛の歌だと勘違いしてい
て、母の良寛さんの話を思い出しながら勉強していたというのである。その歌集が良寛が筆写した「万葉集」だと知ったのは七年後くらいだったという。それにしても、十四歳の少年が、まだ世間的には無名であ
った良寛の筆写した歌集に興味を抱き学んでいたというのであるから驚きである。このような出会いがあったというのも、母上のお導きがあったからというより外ない。後、平野先生は良寛が学んでいた「万葉集」
の研究に没頭され、「万葉集全釈昭和解」を書かれる国文学者になられることになる。
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3.教育者としての平野秀吉先生 |
明治二十三年、先生は「尋常科教員免許状」を取得され、その年灰方尋常小学校訓導兼校長になられている。また、明治二十五年には「高等科免許」を取得され、九月には内野尋常小学校訓導になられている。そして、明治二十八年六月二十二歳のとき、「乙種検定」に合格され、九月には旧制新潟中学校の授業嘱託になられている。先生は苦学されながら、勉強を重ねられ、ついに文部省の検定に合格され、旧制新潟中学校(現在の新潟高校)で教鞭をとられることになる。
新潟中学時代の先生の教育者としてのすばらしさは、新潟中学校校友会の「遊方会雑誌」を読むとよくわかる。情熱をもって国文学を教えるとともに、生徒へも愛情をそそぐ熱血教師であった。後年、文学博士・歌人・書道家として活躍する会津ハーも、平野先生の教え子である。先生との出会いがなかったならば、おそらく短歌の道には進んでいなかったと思われる。会津ハーは後年「平野さんは明治二十八年に私がまだ十五歳で中学一年の時に作文を教えてくれた先生でその頃は、先生もずいぶん若い先生であったが、若い頃から非常な勉強家で、また親切な教師であった。」(「夕刊ニイガタ」)と評している。
先生は、明治三十一年六月「漢文科習字科教員免許状」を取得され、翌年二月には正式に新潟中学校教諭になっている。会津ハーは中学五年のとき平野先生から万葉集を学び、その調べが良寛の和歌と共通するものがあると感じたと後年述べているが、この出会いがなかったならば、良寛の和歌が全国的に有名になることはなかったかもしれない。というのも、良寛の和歌が高く評価されるようになったのは、明治三十三年六月会津ハーが三条の南画家村山半牧が編集した「僧良寛歌集」(明治十二年刊)を正岡子規に送ったことがきっかけとなっているからである。
平野先生は、明治三十二年三月、富山県第三中学校(魚津中学校)に赴任されるが、生徒が別れをいかに惜しんでいたかは、先の「遊方会雑誌」を読めばよくわかる。そして、明治三十四年、新潟県高田師範学校教諭になられている。そこでの五十年間にわたる教員生活は、万葉研究に打ち込むとともに教員育成に熱心に当たられた。昭和九年、高田師範学校校門横には、同窓生が建立し「平野秀吉頌徳記念胸像」が建立された。先生の徳がいかに高いものであったかを物語る記念像である。高田師範学校を訪れる人は、皆初代校長像だと思ったという。碑文には「篤学力行、教而不倦、倫而不諭、門弟三千人、慕風服徳、相会談必及其事」とある,先生の人徳がしのばれる文面である。先生が幼少より親しまれた良竟に関わる著書「良寛と万葉集」が刊行されたのは、昭和二十二年のことであった。この刊行も、教え子たちの尽力で実現したという。このように、万葉集・良竟の歌・漢文に造詣が深く、教育者としても立派な平野秀吉先生が、高田師範の教諭になって間もない三十一歳のころ、三条中学校校歌は作詞されたのである。
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